チェスキークルムロフ
世紀を超える旅
チェコ共和国
チェコ共和国における数々の世界遺産の中でもプラハとチェスキークルムロフは最も価値ある歴史地区です。どちらの都市も文字通り中世建築の宝石箱であり、毎年世界中から何百万人もの観光客が訪れます。プラハとチェスキークルムロフはかつて権力を争った歴史もありますが、現在は数多くの保存状態のよい中世史跡が訪れる人たちの興味を満たし、スメタナにインスピレーションを与えたブルタバ川(モルダウ)によって深く結びついています。プラハが常にチェコ王の場所であったように、チェスキークルムロフはチェコの最も有力な貴族の場所でした。王侯や皇帝の街であるプラハ歴史地区を訪れた方はチェコの輝かしい将軍の地も見逃してはなりません。
チェスキークルムロフ
チェコの中で最初に世界遺産に登録されたのがチェスキークルムロフです。この街には驚くほど数多くの中世の史跡がとても小さな範囲に密集しています。14世紀そのままの街並みが残され、中世建築の活きた教科書といわれています。数え切れないほどのゴシック、ルネッサンス、バロック様式が重なり合った美しさは、まるで魔法の杖が振られ16世紀に戻ったような感覚です。 チェスキークルムロフ城のシルエットがブルタバ川岸の岩に映える夜のライトアップはまた幻想的です。プラハ城に次ぐ広大な城の敷地に残るバロック式の劇場は今日世界でもっとも古いキャッスルシアターの一つです。伝統的なチェコスタイルのパブでは文化、音楽など様々なジャンルのイベントが行われ、チェスキークルムロフでのナイトライフを彩っています。また、街はクラシック音楽祭の会場でもあり、中世の美しい建築と共にチェコや世界中の作曲家の作品をより深く体験する絶好の場所です。今日チェスキークルムロフではファーストクラスのホテルへ滞在、日本語によるガイド、美術鑑賞をはじめ、乗馬、サイクリング、カヌーやラフティングなどのスポーツもお楽しみいただけます。チェコの歴史の奥深さを体験できるチェスキークルムロフへぜひお越し下さい。16世紀に帰る、忘れられない旅をお約束いたします。
チェスキークルムロフ城
各位
チェスキークルムロフ城にたくさんの方にお越しいただきありがとうございます。近年のチェスキークルムロフへの観光客の増加にともない、お城の入場に関しまして若干のルールを設定する必要が生じて参りましたのでお知らせいたします。これは、お城の運営を円滑にすすめるためだけでなく、多くの皆様にチェスキークルムロフ城の見学をして頂けるよう考慮しております。以下をご参照ください。
1 人数について
一回のガイドツアーでの人数は最大45名です。45名を越えるグループの入場も認められられませんが、ごく少人数でツアーを独占することも認められません。また、ガイドツアーに一人でも多くの方が参加して頂けるよう、グループが45名以下であった場合、チェスキークルムロフ城の判断において、同じ日本人グループもしくはリクエストされているガイドツアーの言語が同じグループを一緒に入場させることがあります。これは事前にお客様の同意を得ることなく行われ、お客様、添乗員はそれを了承して頂かなければなければなりませんこの場合、ガイドツアー中は一つのグループとして城内を見学します。個々のグループ・旅行会社に別れて行動することはできません。また、城内を案内するのはチェコ政府とチェスキークルムロフ城が公認したクルムロフ城専属ガイドであり、数グループが一緒に入場する場合でも、ガイド一人が参加者全員に案内いたします。
2 予約時間の厳守
予約時間の厳守が原則ですが、もし万が一間に合わない場合は、速やかに城内のチケット売り場まで連絡をお願いします。その際、他に空き時間ががあれば予約時間の変更、または他のグループと一緒に入場するなどの対応が可能な場合もあります。しかし、近年チェスキークルムロフ城を訪れる観光客の数は極めて多く、予約時間に間に合わなかったグループは入場ができない場合が多くなっております。予めご了承ください。皆様のご理解とご協力をよろしくお願いいたします。
以上
PhDr. Pavel Slavko, Director State Castle Cesky Krumlov
ホラショヴィッツェ
チェスキークルムロフは、湖・森・丘に彩られた風景が「絵画のよう」と評される、南ボヘミアに位置しています。今日でもこの地方の美しさは南ボヘミアの伝統的バロック建築にモチーフとして取り入れられています。このよい例がチェスキークルムロフ近く、やはり世界遺産であるホラショヴィッツェです。
フルボカ-城
南ボヘミア地方の有名な史跡の一つがネオゴシック建築のフルボカ-城です。こちらはイギリスのウインザー城を模したものと考えられています。
チェスケーブジェヨヴィツェ
この地方の中心となる町,世界的に有名なバドワイザービールが醸造されているチェスケーブジェヨヴィツェです
チェスキークルムロフの復興
その昔、南ボヘミアの小さな町・チェスキークルムロフは、チェコ王国の中で政治的にも文化的にも第2に重要な都市とされていました。クルムロフの支配者であるローザンバークの領主たちは、チェコ王国の王の座を狙って、中世の町並みを変えていきました。彼らは暗いゴシック様式の城を豪華絢爛に造り変え、格式高いルネッサンス様式の家を建てていったのです。こうして、クルムロフのローザンバークの宮廷はヨーロッパの政治的拠点の一つとなり、同時に、首都プラハとの対立関係が生じました。しかし、歴史がローザンバークの王権獲得への野望を打ち消してしまいました。クルムロフの城下町が最も繁栄していた時と同じ17世紀のはじめころ、一番権力があったチェコの貴族達がこの世から消え去ったのです。それと同時に、クルムロフの勢いも次第になくなっていき、そのまま4世紀もの間、町は眠りに落ちていました。時折、シュバイツァーのエジンバークの支配下で目を覚ましたクルムロフでしたが、やはりその栄華の衰退は避けられませんでした。そして時は過ぎ、チェコ社会主義共和国の共産主義のもとで、クルムロフは「神に忘れ去られた町」と呼ばれるまでになってしまいました。町として生き残っていくための必要最低限のケアしかされず、かつての素晴らしい建築物は次第にさびれていきました。しかし、チェコの共産主義の終わりとともに、クルムロフが突然目覚めたのです。かつてないほどに大規模で、高予算を投じての建築物の修復・改装が始まり、10年以上の歳月をかけて町は生まれ変わりました。注目すべき事実としては、町の歴史的価値がそのまま残されていたという事があげられます。歴史的建築物の修復に取り組んだ人々は、修復の際に非常に厳しい規則をつくり、建築物の所有者たちはこれに従いました。彼らの努力は実を結び、今日では訪問客達が数多くの丁寧に修復された建築、独特の壁画を堪能することができます。これらの壁画は空白の部分があり、一見すると修復が未完成であるように見えがちですが、実はこれには理由があるのです。前述の通り、建物の修復の際には非常に厳しいルールが定められました。それによると、修復にあたりその当時と同じ技法・材料を使用しなければならず、それが不可能な場合は、無理に再現をしないという理念に基づいているからです。こうして中世の町はその価値を永遠のものにし、ルネッサンス様式のの建築物、絵のように美しいゴシック様式の路地、きれいに修復されたバロック様式の建築に囲まれ、また、それを妨げる近代的な建物もなく、訪れる私たちを16世紀にタイムスリップしたような感覚にさせてくれます。このように歴史的建築物がたくさんあることにちなんで、クルムロフは「中世建築の真珠」と呼ばれ、親しまれています。さらに、建築物だけではなく、町には中世の気質も備わっています。地理的に田舎地方に位置し、都会の雑踏からはなれた住人約13000人の小さな町には静かで平和な空気が漂っています。過去にプラハの町と勢力争いをしていたころのように、今日では、観光事業で競争が起こっています。しかし、クルムロフが観光客に注目され始めたのはつい最近にすぎません。観光客の数は増え続け、昨年は200万人以上の人々が町の美しい建築物を見に訪れています。以前は、訪れる人はドイツ語圏からがほとんどでしたが、1995年から日本人観光客が増えてきています。UNESCOの2大都市、ウィーンとプラハの中間点であるということから、チェスキークルムロフはUNESCOのお昼休憩の地としてたくさんの日本人から愛されるようになりました。すでにいくつかの店では日本語による説明書きがあり、クルムロフのガイドたちも日本語を少しずつ勉強しています。小さな子供たちも、アジアからの観光客を見かけると「こんにちは」と挨拶したりします。こうしてクルムロフの町は忘れ去られていた暗闇の時代からはい上がり、16世紀にあったような見事な復興を遂げたのです。クルムロフの人気はたくさんの本物のルネッサンス建築に支えられていますが、ルネッサンスとは、「復興」という意味があり、故にクルムロフは今「復興(ルネッサンス)の復興」を遂げて生き続けています。歴史が繰り返す事なく、この美しい町が忘れ去られる事が二度とないことを私たちは願っています。
by オト・シュラメック (チェスキークルムロフの城下町の日本語ガイド)